情報の発信について

犀ワールド

まず情報について自分が考えたことをまとめてみた。我々は情報に対する認識には曖昧のところがある。「あることがらについての報せ」あるいは「判断を下したり行動を起こしたりするために必要な、種々の媒体を介しての知識」だと《広辞苑》にも乗ってあるように、具体的な完全なる解釈を定義することは難しい。ここで、私はそれをはっきりさせるつもりではなく、むしろもっと曖昧にすべきだと思っている。
簡単に言えば、「情報源と呼ばれるところから発送された内容は情報である」のようなものは私が情報に対する認識なのだ。ちょっと偉そうに当たり前なことを言っているけれど、もっとも情報に相応しい定義だと思っている。何故ならば、情報の内容に明白な定義を定めると、情報を受ける側の視野を狭くするおそれがあるからだ。そして、それによって物事を判断する時、人々は事実が必ずしも真実に等しいということを忘れ、明白な情報のもとによって影響され、自分の価値観や経験によって判断するのを難しくするのである。なぜそれが危険だというと、真実が事実と異なることを発覚されたとき、我々は責任を負うことではなく、自分を責めるのでもなく、“明白な情報の内容の定義”を定めた情報源、あるいは発信者のせいにすることができるからだ。これはどの社会体制においても起きてはいけないことだと思う。つまり、我々は大量なデータあるいは分析結果を必要に応じて取り出す時にも、日常生活にあらゆる情報を受け入れようとするときにも、まずその情報源を知る必要があると思う。そういうわけで、情報の発信を行い、その定義を定めた情報源のことを分析してみる。


誰か何の目的で情報を流してきたのを判明もしないで、迂闊に出された情報を受け入れたら、我々にとって害になることだと考える。よって、情報受信者としてはまずは情報源をコントロールする側の目的を探らなければならない。さらに、情報を流すことによって発信源にどんな利益をもたらすことを解れば、少なくとも情報に対する客観的な判断はできるのであろう。使うなり、破棄するなり、迷うことはなかろう。しかし、その真の目的をすべての受信者が探れるとは考えにくい。ある特定な物事に対して、利益を求める発信者はわざわざ自分の真の目的を正直に受信者に言うのだろうか。恐らくしないであろう。よって、真の目的の外側にはいつも美しい包装に包まることになる。ここで、もっとも都合がよくて、しかも使いやすい包装が意外に人類が作り上げた文化なのかもしれない。

 私は宗教やら、主義やらの類は単にある種の文化似すぎないと考えている。昔の統治者が民をコントロールするために宗教を伝播するように、今では利益を求める者たちも同じことをしているように感じる。
 時代の変遷や文明の進歩につれて、我々は情報を得る手段やその質と量が変わっていく。もちろん、情報源も変わりつつあり、多様化、多極化だと進化してきた。みなさんが知っているように、テレビ番組や新聞から得た知識は情報であり、インターネットや携帯電話からも様々な情報も得られる。我々は他人と世間話をして、直接にコミュニケーションをとることだけで情報を得ることは、大量な情報の把握や分析を求める現在社会ではもはや不足していると判断してもいいだろう。つまり、現代文化の背景下に、マス・コミュニケーションこそ真の情報源に違いない。


 ある例を挙げてみる。違う政治体制を持つ二つの国が対立し、戦争状態に入っている。それぞれの政府やマスコミが宣伝していることは、対象が違うだけで、内容はほぼ同じである可能性は極めて高い。“我々の正義たる勇敢なる将兵たちは極悪無道な敵に立ち向かっている”のような報道が双方の国民が同時に違う場所で受信しているかもしれない。他の国を侵略行く前に、将兵たちが家族、とくに子供に言う言葉のなかに、“悪者をやっつけてくる”のような言葉が必ず出てくる。戦いが負けても、国民は決して敗れるという言葉が耳に入ることはない。そして、凱旋した将兵たちを英雄と呼び、その勇戦ぶりを感動し、興奮して熱くなった政府やマスコミは、決して彼らが他の国の軍人、最悪の場合は民間人を殺した大量殺人者であることを民衆に報道しないだろう。民衆も自然に他国の人々を殺すことで、自分が守られたから、非難はしないだろう。それが情報をコントロールする側が自分たちの都合のいい情報としか発信しないことによって最悪な結果を生じるケースに違いない。しかも、こういう戦争を始める理由は、ほどんとが「自分たちが信じてきたことが違うから、先に手を打たねばやられる」というものなのだ。よく考えてみれば、やはりそういう結果を導いたのもまさに文化の存在なのだ。 


 ここで自分は文化こそ悪の源と認識したのではないと一瞬迷ったけれど、やはり違う。なにしろ、絶対悪というものは、三流のテレビ番組にしか出現しないんだからだ。一方的になにかを悪だと決め付けるほうがどうにかしてると思う。これを説明するために、もうひとつの例を挙げる。民主国家であるA国の国民が自分の国の指導者を選び、その指導者の失政や政治家たちの腐敗によって国が滅びたとき、責任は指導者と政治家だけにあるのではなく、監督の義務を果たせなかった国民全員の責任であることは明らかである。しかし、独裁国であるB国の場合では、すべて独裁者一人、あるいはその一族のせいにすることができる。果たして、どの国、あるいはどっちの国民のほうがもっとたちが悪いのか?それもやはり文化の違いによる情報のコントロールから生じた物事への判断や、そういう文化背景における人の価値観の違いによるものだと思う。
 どんな精密な機械を持ちとしても、それを使う人間がだめなら、いくら精密な機械もただの廃物である。それと同様に、文化を作り上げて、発展させたのは人間であって、それを使い、生活を豊富にするのは本意である。なのに、文化を利用する人間の存在も不本意ながら仕方ないことである。しかし、だからといって、自分の人生まであきらめてしまうことはないと思う。世の中のことを多く理解出来ても、納得できない人間は多々いる。文化や情報に“コントロール”されるかどうか、最後に決めるのも私たち人間自身であることを忘れてはいけない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました