現代社会において、マスコミは人々にとってはなくてはならない存在であり、新聞・雑誌・ラジオ・テレビジョン・映画などの媒体を通じて行われる大衆への大量的な情報伝達が、人々や社会全体に与える影響は多大であると認識している。
この背景の元では、マスコミは利益を得るという大前提で、視聴率や販売量などを上げなければならない。よって、インパクトのある情報を大量に視聴者や読者に流すことになる。それが前々から分かっていることでもあり、問題はないと思っていた。が、近頃になると、こういうインパクトのある話題の報道を見るたびに、だんだん違和感を覚えるようになった。普段気づかないかもしれないが、どんなジャンルの話題であっても、とりあえず専門家を招いたり、その背景、社会関係などを分析したり、とにかくなんらかの答えを得ようとしている。確かにそれによって得た答えは理屈に合い、正しく聞こえる。人々も“そうですか”とつぶやきながら納得できる。けれども、こういう型にはまった形式はインパクト重視の報道にしては、視聴者にとって退屈そうに見えるはずだ。どうしてこうまでしてそれをこだわるのだろうか。私には不思議で仕方がない。
自分の中でもその答えを求めようとしたけれど、やはりそういう風になった原因は分からなかった。おそらく答えは人々が今の世界をどう見ているかというところにある。昔も今も、どこの国でもメディアの危うさを持っていると言える。それはときの権力に飲み込まれやすいという弱点を持っているからでしょう。70年以上前、日本も軍にメディアが飲み込まれた過去を持つと聞く。それが今の時代はそれほど過激ではないにしろ、決して笑ってやり過ごせるような時代でもないと思う。そういった中でマスコミから情報を受け取る視聴者は様々な情報を流している送り手よりバカであると思っているマスコミ側の人間が一人でもいたら、私は視聴者としては断じて許せないだろう。しかし、視聴者をバカ扱いしている様な番組が多すぎる。今、テレビ局の中で働いている人達の中にもそう思う人達は多くいることを思う。問題は視聴者がそれほどバカではない、最初は気づいていないだけで、時を経てば経つほど “何でこんなにくだらない番組や記事ばかり飽きもせずにやっているのだろう”と思うようになるだろう。それがマスコミを運営する張本人たちがこの現状を知らないはずはない。彼らにはわかっている、テレビなどのマスコミにとっては最高権力者が視聴者であって、スポンサーにとっては消費者、つまり視聴者であることを。よって、自分の利益のためにも、人々の感情を自分の都合で操る必要がある。最終的には、人々の考え方そのものをコントロールしようという方法を実行したのかもしれない。
つまり、表面上では視聴者が分かりやすくように、専門家などによる科学上で解釈できて、いわば正しい答えを与えてくれることになっている。実のところは彼らが自分の都合のいい考え方を我々に押し付けている可能性もある。結局、視聴者の人間性が無視され、精神への侵略を許すことになり、いつの間にか、物事に対して自分の判断力を失い、そういう‘正しい’考え方が判断の基準になってしまう。最悪な結果としては、他人を信じなくなり、社会の中で孤立していくことであろう。
もちろん、そういうもので我々の事実を求める意欲を満足している。競争の激しい社会の中で毎日頑張っている私たちにとっては、そういう基準あるいはマニュアルのようなものに従えば、確かに気楽で生きていける。が、そのようなものは決してすべてを決められる真理ではない。時や場合によると、事実は真実に等しいとは限らないこともあると考えると、それがお分かりになるでしょう。我々一人一人に自分の自我を持っている。物事に対し自分の判断や他人との交流、接触で経験を積み、人格を磨き、成長していくのです。こういう人間達の集まりは社会を築き、文明を創るのである。考え方を統一した世界は確かに魅力的である。しかし、我々人間が世界のために生きるのではない、人間が生きる場所、それが世界になるということを忘れではいけない。
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